PROFILE

これまでの主な仕事

(エディトリアル・新聞
月刊太陽、別冊太陽、マリクレールフランス、マリクレール・ジャポン、エル・ジャポン、ヴォーグ・ジャパン、SOPHIA、コスモポリタン・ジャパン、ミセス、家庭画報、チェックメイト、フルール、週間地球旅行、「美しい着物」、Voce、With、朝日新聞、読売新聞、インプレッション

(広告)
SEIKO、ポラロイド・ジャパン、旭化成、コニカミノルタ、三菱重工、堀内カラー、SUBARU、アミューズ

(作品掲載・記事執筆)
100Japanese Photographers 2 作品掲載(シナジー幾何学・高橋周平監修)
「B/W プリントワークと暗室」表紙写真(玄光社)
「B/Wプリント処理の実際」記事執筆(玄光社)
「図解人物ライティング」記事執筆(玄光社)
「新・ライティングの実際」記事執筆(玄光社)

いろいろあった私のプロフィール

セレブリティの写真を撮ることが多いのですが、昔から不思議と有名人に縁があります。
大学卒業後、バイトに行った先は、あのソフトバンクでした。まだ社員は2人で10畳位のオフィスででした。孫さんの野望に惚れ込んだ私は、3人目の社員になり、社員が100名を越すくらいになるまで、ほとんど休まずに働きました。最近、新橋にあるソフトバンク本社に遊びに行きましたが、10畳ほどのオフィスが今や、巨大なビルになったことに、不思議な感動を覚えました。
ソフトバンクではアプリケーションソフトの評価を執筆する仕事をしていましたが、当時はパソコンが世に出てきたばかりで、私たちはパソコン第一世代でした。当時のパソコンはまだ、マウスなどなく、キーボードから打ち込むコマンドで動かしていました。
当時(1981年頃)から、コンピュータ言語や、PCに接していたせいか、その後、自然に画像処理やインターネット・テクノロジーにも親しんでいくことができました。将来、仕事にコンピュータの知識が役に立つなんて、当時は考えもしませんでした。経験で無駄になるものは何もないとういうのが実感です。
その頃、まだ、一般的には無名だったビル・ゲイツ氏に会いました。そのとき同席していたのは、アップルジャパンの社長(当時はアメリカ人)。嘘みたいな本当の話です。 ビル・ゲイツは密かにMACを愛用しているという噂を裏付けるようなエピソードです。

ソフトバンクを退社した私は、フリーのテクニカルライターで生計を立てつつ、知り合いの写真家の助手をしながら写真の技術を身につけて行きました。そして、つてを頼って、徐々に仕事をこなしていくようになりました。当時は、商品写真を撮っていました。もともと商品撮影を専門にするつもりはなかったのですが、撮影の技術をしっかりと身につけることができました。朝から深夜まで数十日間、商品を撮り続けたこともありましたが、それらの経験によって光をデッサンする力を養うことができました。ライティングの基本を身につけるには、商品撮影が一番です。地味な仕事ですが、シビアです。今考えるとこの頃が一番時間が経つのが速かったような気がします。

それからしばらくして、バブルに狂乱する日本に嫌気がさした私は、単身、知り合いもいないニューヨークに渡りました。物のポートフォリオしかなかった私は、通っていた空手道場にいたファッションモデルの道場生に頼み込んで、人物作品を撮り、それをモデルエージェンシー大手のエリートモデルに持って行きました。作品をマネージャー氏に気に入ってもらい、それからは、新人モデルのブックの写真を撮るようになり、私のポートフォリオは増えて行きました。
人物撮影に開眼したのは、そのころです。無政府状態のような街に、いろんな人種、タイプの人がいて、人を眺めたり、撮ったりするのが楽しくて仕方がない毎日でした。仕事では、元国務長官のヘンリー・キッシンジャー氏や、チューリング賞受賞者でC言語開発のデニス・リッチー氏のポートレートを撮りました。アメリカ人でもなかなか会うことのできない人たちを写真に収めることができてラッキーでした。

当時、NYでは、いきなり売り込みの電話をしても、ほとんどのADたちは時間を作って、私の作品を見てくれました。それを不思議に思い、あるADに、「なんで俺みたいなどこから来たのか分からないような馬の骨にあってくれるんだ?」と質問すると、「NYで活躍している連中は、皆、最初はあなたみたいに、一人でNYに出てきて、電話で自分を売り込むことから始めたのだよ」と答えてくれ、私はとても感動しました。今はどうか分かりませんが、NYの人たちは、一人で出てきて、NYに住んで頑張っている人に暖かい目を向けて、何かと面倒をみてくれるところがありました。

帰国後(1990年〜)は、様々な雑誌や媒体でポートレートを撮り続けていますが、物やドキュメンタリーの写真も撮っています。私にとっては、ポートレートも物もドキュメンタリーも区別はありません。どれも同じ「写真」です。被写体の方々だけでなく、AD、編集者、ヘアメイク、スタイリストさんとの出会いが楽しくてこの仕事をしています。
1990年代は、まだインターネットが実用性を持って受け入れられる前で、雑誌や雑誌広告、ポスター、カタログなど印刷文化が華やかな時代でした。特に雑誌等の仕事では、予算のある仕事を自由に撮らせてもらっていました。欧米でもそうですが、雑誌文化がフォトグラファーを育てる。という側面があります。フォトグラファーは何より、多くの、責任ある仕事をしながら成長して行くものです。また、印刷用の写真は、ウェブ用だけに撮る写真よりはるかにシビアで、高いクオリティを要求されます。それが、21世紀に入り、次第に変わってきたような気がしています。時代が変わって、発表媒体が変われば、フォトグラファーのあり方も変わってくるのかもしれませんが、我々以前の世代は、フォトグラファーとしてとても恵まれた時代を生きて来れたと思っています。

祖父は昭和初期、中国大陸、青島で商売をしていましたが、ローライコードで当時の中国の街角の様子やポートレートを撮っていました。有力者に面識があり、ラストエンペラー溥儀のポートレートも残っています。
父親も、暗室を持ち、引き伸ばし機や現像液まで自作して写真を楽しんでいました。
そういう環境だったので、写真の遺伝子が私にインプットされていたのかもしれません。
写真大学には進学しませんでしたが、世の中に出て、いざ職業を選択することになったら、紆余曲折はありましたが、自然とこの道を選んでいました。
楽しいことは苦にならないと言います。客観的に見たら苦労したかもしれませんが、私には苦労したという自覚はありません。それだけ、この道が合っていたのかもしれません。
すでに半世紀以上生きていますが、これまで写真を撮ってこれたことに感謝しています。
ここまで読んでくださったみなさん。どうもありがとうございました。皆様の将来が輝けるものでありますように。

Client

Magazine・Newspaper
The Sun ,Marie Claire Japon, Elle Japon, Vogue Japan
Marie Craire France, SOPHIA, Check Mate, Mrs,
Katei Gaho, Cosmopolitan Japan, Asahi News,
Yomiuri News

Advertising
SEIKO, Poraroid Japan, Asahikasei, KonikaMinolta
Mitsubishi Heavy Industry, Horiuchi Color, SUBARU
Amuse

Written work
「B/W Printwork & Darkroom」(Genkosha)
「B/W Professhional Print Process」(Genkosha)
「Portrait Lighting Illustrated」(Genkosha)
「New Lighting Illustrated」(Genkosha)

My Story

In 1954 I was born in Kumamoto.
In 1973 I came up to Tokyo .
After graduating Keio University, I worked as a staff of Computer Company.
After coming out of Computer Company I began working as a free-lance technical writer and learning professional photo techinic worikin as a assistante photographer.
In 1988 I came up to NYC with my Portfolio.and opened my exhibition at SOHO Photo Gallery. I also began working as a professhional photographer.
The first assignment in NYC is to take portrait of Henry Kissnger in his office on Lexington Ave.
After expiring my work visa, I came back to Tokyo and opened Hiroyuki Ide Photography Office.
In 1991I started my career of photography in Tokyo again.

My grand father was woriking as a cotton trader in China before World War2.He was crazy about taking pictures. He would walk aroud the street of Tsingtao taking photograph of landscape, building and people with Rollei Cord. After his death I foud out the portrait of Last Emperor of Manchuria in his album collection(He told me that he had had some connection with the Japanese Army and Emperor).
My father also was crazy about taking pictures.
His camera was not Rolie Cord but Ricoh Flex because People in Japan was not so rich to buy Rollie Cord (RicohFlex was pricy!).
At that time no one can get photo enlarger and chemicals and paper.
But He made them by himself and took many landscape and pictures of me.
So naturally I became interested in Photography .
Though my major in university was not Photography.
I naturally went into this industry .
Photography is the gene which connect my grandfather and my father and me.